あなたは、今、何時ですか?

室長ブログ

 唐突な質問でびっくりされたかも知れませんね。実は、私が35歳のころ勤めていた学校の副校長から尋ねられた言葉だったんです。副校長いわく、「私は、夕方の5時。君は、午前中の10時ごろだね」副校長の話は、単純な計算式でした。人生の平均寿命を仮に84歳と仮定しましよう。(当時も、平均寿命が年々高くなって来た時代でした)それを、1日24時間で割ってみると、1時間で3.5歳という計算になります。当時、副校長は定年前で、59歳。59÷3.5=約17時となるのです。当時35歳の私は、35÷3.5=10時となる計算です。

 その時の私は、「17時?寂しいな、これから夜の帳が降りて、暮れていくばかり?」と、何故か感傷的になった記憶があります。

 

 しかし、人生を1日の時間に例えることは興味深いものがあります。スタートから朝の6時ごろまでは、普通は眠りの時間です。人生で言えば、0歳から21歳までです。しかし、この時期の子どもたちは、決して眠っている訳ではありません。今や、早期教育や受験勉強、習い事等で、大人以上にストレスフルな生活を送っている子どもも多くいます。

 小学校に入学するころから、「うちの子どもは天才かもしれない」という親の期待も徐々に薄れ、中高生となると、夢に見ていた将来像も現実化し、一部の過熱した進学塾以外のこどもたちは平準化し、現実社会に適応していくための準備期間(まだ夢の中の時間なのかも知れません)となっています。

 人生の中間地点は、お昼12時、42歳となります。この頃といえば、仕事も軌道に乗り、仕事・家庭・プライベートでも、全盛期に位置するのではないでしょうか。太陽が最も高くなる時間です。

 60歳定年時は、17時過ぎとなります。多くの人々が、勤めているビルから一斉に退社し、アフター5は、それぞれが思い思いの方向に散らばっていきます。中には、会社に残って仕事を続けている人もいるでしょう。夜は長いので、この時間から元気になる人もあるでしょう。個性が、芽を吹く時間かもしれません。

 夜も9時が過ぎる(73歳頃)と、ほとんどの人は家路に向かいます。夜の過ごし方にも変化が生まれます。食事も終え、風呂も済ませ、眠る前の時間を夫婦で語らったり、読書したり、テレビを見たり、急速に時間の経過が遅くなってくるかもしれません。

 

 17時を、感傷的にとらえていた私も、今の私は、もうすぐ午後の9時を越えています。現在は、24時間営業の店や街があり、かってほど夜の寂しさはなくなってきたのかもしれませんが。

 江戸時代なら、日没とともに家路につき、月明かりに夜なべをしても、8時や9時には休んでいたのでしょう。現代社会は、不夜城とも言われ、昼夜の区別も無くなってきましたが、働く世代の急速な人口減少で、24時間コンビニの働き方も見直されつつあります。同時に、省エネや地球温暖化の観点からも、夜中の生活には制限も必要との考えもあります。この時間をどう過ごすか。各自に問われ始めている気がします。

 私は、現職時代は自らを振り返る機会もなく、慌ただしく過ごしてきました。退職後も新しい職にチャレンジした結果、資格を得たり、研修を受けたり、就職活動に勤しむ中、またまた慌ただしく時を過ごしてきました。

 近年、同世代の仲間が、次第に、家路に向かい始めた今になって、ようやくわが身を振り返る機会が出てまいりました。何事も、渦中にあっては全体が見えません。齢を重ねて渦中から抜け出した頃には、全体が見えるようになっても、再び渦中に戻ることはできません。

人生の途上途上では、自身を振り返るイベントがあります。その時こそ、一度立ち止まることも大切に思えます。

 「あなたは、今、何時ですか?」との問いかけにこたえることは、今のあなたを俯瞰することではないでしょうか。渦中から、少し離れて、自分自身を俯瞰した時、先が見えないと思っていたことが、一筋の光明を発見することになるかも知れないのです。

 私は、今になってそのことに気付いたのですが、致し方ありません。しかしこれは、私個人の反省だけに終わらないかも知れません。

国の安全保障や、国家財政、社会保障、人権問題等々、人々は、渦中の問題に右顧左眄し、目先の利害に翻弄される政治家や急速に変化する社会を読み切れない評論家たちの言に踊らされるだけになってはいないでしょか。

 誰もが冷静に、世界の隅々まで見渡せる広い視野と、過去から未来までも見通せる深い洞察力をもって、今を立ち止まり眺める必要があるのではないでしょうか。

 「私は、今、何時を生きている」そう自覚して、自身の人生設計を一度見直すことも意義あることでしょう。

 84歳を超えて、元気な方は、延長の時間に感謝しながら有意義な時間を謳歌して頂きたいと思います。

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