何故 人は怒るのか?

室長ブログ

 最近、社会に起きて居る現象で、私たちの目に触れることの多い言葉にパワハラという言葉があります。

 私の居る兵庫県では、知事の言動が日本中を巻き込む騒動となりました。

 パワハラのみならず、セクハラ、モラハラ、カスハラ、マタハラなども問題となります。更に、アルハラやエイジハラスメントなどもあるそうです。

 いずれにも、地位や立場、体力や経済力等の何らかの優位に立つ者が、暴力や暴言、威嚇、或いは相手の忖度や譲歩を用いながら、一方的に、意見や行為、態度を押し通すというものであります。そして、共通する手段として、「怒り」の感情を活用していることです。

 

 「怒り」を前にすると、私たちはどのような態度をとるのでしょうか?

先ずは、近づかない、関わらない等、距離を置こうとするかも知れません。

怒る姿を見て、我に返って、冷静になるかも知れません。

怒りを鎮めるためには、兎も角謝罪しかないと、取り敢えず謝るかも知れません。

落ち着かせるためには、相手に寄り添い、共感的な対応を試みるかも知れません。

相手の意に沿い、意見や提案を受け入れ、納得させようと試みるかも知れません。

怒りに怒りで返すと、相手が激高し、場合によってはさらにひどい状況となって、収拾がつかなくなることだけは、避けたいと考えてしまいます。

 

 何故、上記の様に、他者の怒りを私たちは受け止めてしまうのでしょうか?

それは、人類は、他者との協力関係で種を維持しようとする、社会的動物であることに関係するのではないでしょうか。

怒る相手にも、共感的に接しながら、排除せず、関係性を維持していく態度が本能的に身についているのかも知れません。

 

もし、そうであるならば、人間関係の中で「怒り」を先に表出したものが、関係性に於いて有利に働く可能性があります。

狭い道路で、車同士が対向した時、怒鳴られたら道を譲ってしまいます。

上司が不機嫌になると、自分の意見が出せなくなります。

嫌だと感じてもNoと言えない場合があります。

 

「怒り」を表出した者の 意向が優先されていく状況です。

意識的にか無意識なのかは分かりませんが、「怒り」を利用する人がいます。

 

ある会議の場で、発言者が、怒りの感情を顕にして、相手を攻め立ています。その会議の傍聴者は、次のように感じました。

 「彼は、問題点をよく理解している」「彼は、この問題に本気だ」「彼は、(私は知らなかったが)きっと重大なことを指摘している。」

「怒り」には、本気度が示されたり、重大さを意味したり、緊急性を要求されていると言った心理的効果を演出する働きもあります。

 

私たちは、このような「怒り」の性質や働き、心理的効果が伴っていることを冷静に見極めなくてはなりません。

トランプ氏は、世界政治の既存の価値観(例えば自由貿易)に異を唱え、激しい口調で、他国を責めています。その怒りが高まるほど、支持者は熱狂的に彼を信頼していきます。

日本国内でも、特定の人物や団体を口汚く罵った勢力への支持が拡大しています。

世界政治も、他者への尊重や思い遣りを欠いた扇動者が、各国で勢力を広げています。

 

私たちは今、世界情勢や経済状況、自然災害、感染症といった多くの不安要素の中で生きているのです。それだけ、根源的な混迷の中にあるのです。それ故、「怒り」を顕に、他者を攻め立てる人物が、強く、正しく、未来を託すに足る人物であると、願い、託してしまうのです。

この連鎖を切らなければ、世界は破滅に向かいます。

 

迂遠かもわかりませんが、このブログを読んでいただいた先生方若しくは教育関係者、保護者の皆様。

目の前の子どもたちを、正しい価値観と信念に貫かれた 未来の有権者に育てて下さい。

古い言葉ですが 教育は百年の計です。

そして、私たち一人一人が、社会風潮に扇動されない、正しき 有権者であらねばなりません。

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